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2010年4月7日水曜日

マイ盃のブームなのだ

~「マイ箸」があるなら「マイ盃」があってもいいではないか~


先日の新聞に、子供たちが間伐材を利用して、「マイ箸」作りに励んでいる姿が写真で紹介されていました。会計士協会の増田本部会長が「マイ箸」を持ち歩いているということは、知る人ぞ知る、知らない人は知らない、有名な?話ですが、私の場合は「マイ盃」なのです。自分のお好みのものを持ち歩くというのは、なかなかこだわりがあっていいではないですか。


日経新聞の2月の「私の履歴書」は、細川護熙元総理大臣が執筆されていましたが、その中に、細川さんがある陶芸家のもとに弟子入りする話が出てきます。その陶芸家は辻村史朗さんというのですが、先日その辻村さんが制作した志野の盃をいただくことができました。本当は桃山時代か江戸初期の志野の盃を手に入れたいのですが、それははかない夢。仮に目の前にあったとしても、高価すぎておそらく手が出ないでしょう。骨董を収集するようになってからは、現代ものにはあまり興味がなくなっていたのですが、志野の盃に関しては当面は現代ものでしのぐしかないのです。

たとえ現代ものでも、使っているうちに酒を吸い込んで、とろとろに変化していくのを期待したいのですが、なにしろ自宅で日本酒を飲む機会は限られているので、膨大な時間が必要です。こうなったら少しでも多く酒を飲ませる機会を増やすために、毎日持ち歩くしかないではありませんか。また、一日も早くとろとろ化させたいので、邪道ではありますが、夜自宅に帰ってから朝出かけるまで、その盃を日本酒の入った器の中に漬けこんでいるのです。私の行動は異常だろうか?

本来であれば、紅茶で煮詰めるとか、土の中に埋め込むとかすれば、もっと骨董品らしく見えるのかもしれませんが、私は悪徳骨董業者ではないし、そもそもそんな事をすれば酒の味が落ちてしまうので、自然体で(どこが?)いくことにするのです。何ヶ月かして盃に変化あったら、またご報告したいと思います。

先日、骨董市に行くついでに、美濃にある美術館と、瀬戸の陶磁資料館をはしごしてみてきたのですが、志野の焼き物は感動モノでしたね。また、桃山時代の陶片に触ることができただけでも大満足でした。


会計士協会のHPにはあまり関係のない話かもしれませんが、監査も自分なりのこだわりと創意工夫を持ってやっていただけたらと思います。

サラカイセン ~292-295~

292.数年後 あなたも私も 除去債務


293.大学の 代返国会 よりはまし


294.子供手当 いずれ自分の つけとなる


295.報酬を 開示できない もどかしさ

2010年4月6日火曜日

人事の季節

~運命は自分で切り開くものと思っていたが~


年明けに、五木寛之の「人間の運命」を読んだのですが、重苦しい本でした。高校2年の夏に親友を海で亡くしてからは、目に見えない何がしかのものは信用できなくなると同時に、運命というものは「自分で切り開くもの」と思い続けてきました。大学受験もそうでしたし、音楽の道に挫折して公認会計士試験を目指したときも「自分で切り開いた」つもりでした。その私がなんとなく「運命」みたいなのものを、このところ感じるようになったのですね。ここ7~8年の出来事が、あたかも目に見えない何がしかのものに導かれるように行動していたのではないかと・・・。


☆以下、私小説



健司45歳の時の3月に、当時所属していたエスペランサ監査法人に、代表社員の枠が2つできたらしいのです。普通こういった人事というものは、事務所を統括する人が人知れず打ち合わせをして決めるものだと思うのですが、その時は小野寺代表社員が健司ら社員を集めて


小野寺:「君たちの中から代表社員を決めなければならなくなった」


というのですね。仕事には自信があった健司ですが、年齢的にも経験的にも後輩である健司は自ら辞退を申し入れたのです。健司は東北出身でしたが、東北人というのはこういう時に控えめだからだめなのですね。小野寺は、


小野寺:「一晩考えさせてくれ」


というセリフを残し、その日の打ち合わせは終了したのでした。


翌日の朝、健司は小野寺代表社員に呼び出されて説明を受けました。


小野寺:「君は仕事はよくやってくれているし、事務所に対する貢献は申し分ないが、年功だから今回は我慢してくれ」


健司:「ねっ、年功ですか?」


この「年功だから」という小野寺の言葉が健司の頭の中からしばく離れず、その後、成果主義が企業の中で一般的になってきたときに、健司は人事関係の本をひたすら読み漁ることになるのですが、それはさておき、「年功」のおかげでその年における、健司の代表社員への推薦はなくなったかに思えました。


なんとなくすっきりしない気持で過ごしていた健司ですが、2週間ほどたったある日、副理事長の篠原専務理事から直接電話がかかってきたのです。


篠原:「どうして君が推薦されなかったのだ」


健司:「年功だそうです。それに自分から辞退しました」


以下もっと書きたいけれど省略(いつか機会があったら)

その後さらに一カ月くらいたったある日、再び篠原専務理事から電話がありました。


篠原:「君を代表社員に推薦することになった」


健司:「えっ!本当ですか?いったいどういうことなんですか?」


こうして健司は、土壇場のタイミングで代表社員に滑り込むことになったのでした。





この時、OZさんが電話で言葉をかけてくれなかったら、私が事務所長になることはなかったでしょうし、カネボウ事件を契機にみすず監査法人が清算に追い込まれる過程で、名古屋事務所が人員・クライアントともスムーズにそのまま統合することもなかったでしょうし、ましてやその後、私が東海会会長になることもなかったでしょう。このブログもなかったし、テレビドラマ「監査法人」の内容も別なものになっていたにちがいありません。映画の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ではありませんが、私自身まったく別の人生を歩んでいたと思われますし、結果的にいろんなところに影響を与えることにもなったのでしょう。


そう考えた時、OZさんの一言から一本の線に導かれるように、その後のいろんな出来事が結び付いて、きれいにつながっていったような気がするのです。これからの人生、どうなるかはわかりませんが、これが運命というものだったのかも・・・。


気のせいかもしれませんが、年をとったせいか、そんな気がするのですよ。


2010年4月1日木曜日

サラカイセン ~286-291~

286.限度額 引き上げられても 金はなし


287.その発言 末代までの 恥となる


289.この国は 言った言わぬの レベルかな


290.熱冷めて 破談が続く 産業界


291.そのしこな そろそろなんとか してあげて